





ランチのメニューを聞いたのは、翌日ランチに来ようと思ったからだったんだけど・・・
『本日のランチ キーマカレーcase風』
メニュー用の黒板に白のチョークで書かれている文字を見て脱力。
……いやあ、うん、いいんだけどね。
キーマカレー好きだし・・・昨日鶏肉をって言ったくせに・・・
今日は仕事もあるから、カウンターはやめて奥の席に引っ込む。
ランチとドリンクを注文し、バッグから仕事道具を出していると…
「すみません」
声の方向を見ると女の子が立っていた。
その色白の、あまり飾り気の無い女の子の手には見覚えのある赤い本。
(ああ)
私はすっと身をよける。
女の子はぺこりと頭を下げて棚に本を戻す。
「ありがとうございます」
と言って女の子は去っていった。
ちょっと日本人離れした顔に惚れ惚れしつつ、戻された棚の本を見る。
(こんなの読む人いるのね~)
どれ、と私も手に取ってみるパラパラとページをめくるものの、すぐ本を閉じた。
見慣れない建物の写真や、どうやらそれらの設計図らしい。
が、私にはちんぷんかんぷんだ。
棚に戻そうかとも思ったけれど、そのままテーブルの上に本を置いた。
(下敷きに丁度いいじゃない)
テーブルの仕様で表面がガタガタしているのだ。
さて、休憩は1時間。さっさと終わらせちゃってご飯ご飯!
と思って仕事に集中していたら、平日なのに人が入ってくる。 珍しい。
こういうカフェは平日がらんとしているものなのに。
「はい、カレーですよー。」
ふと頭を上げるとジノ君だ。無表情。多分疲れているんだろう。
「ジノ君、お客さんにもう少し愛想を振りまいてもいいのよ?」
「そーですねー」
出た。心の無い返事。
これがジノ君のチャームポイントになっているっていうのがおかしい。
もとい、すごい。
仕事は思いのほか速く片付いたから、ゆっくりランチを楽しもうと思っていたのに
ついいつものクセで一気に食べてしまった。
手持ち無沙汰になって、ぼんやりしていると、
ヴーヴー
うるさいなと思ったら私のケータイだ。慌てて出ると、お店からだった。
「はーい?どうしたのー」
「あ、今日ちょっと暇だからゆっくりしてきていいですよー。」
じゃあ遠慮なくーとか何とか言って電話を切る。
なんて気が利くスタッフなのぉ。
いいスタッフに囲まれて幸せだわ~と満腹感もあいまってぼへーっとしてしまう。
が、折角空いた時間だ。
ちょっとお買い物でもして戻ろう。
そうね、スタッフが喜びそうなお菓子でも買っていこうかな。
ごちそうさまでしたーと心の中で手を合わせてテーブルの上を片付ける。
下敷きに使っていた赤い本は、洋書でそこそこに大きくて厚さもあるから、
いいお値段がするんだろうな、と思う。
が、私にはその価値がさっぱりだ。
「ごめんね」と独り言を呟き、本を棚の元の位置に戻した。
バッグを肩に掛けてレジに向かう。
カランカラン
店のドアに見知った人影が現れて私は腰を上げた。
空のグラスを置いて席を移動して、いつもの席に座る。
「ご注文お伺いしますね~」とすかさず店長。
「じゃあ、オレもビールにしようかな。」
こいつ、ちゃっかり私が空にしたグラスを見ていたらしい。
「私はディアブロで」
悪魔という意味の「ディアブロ」は、テキーラベースのカクテルだ。
私にしては天使みたいに甘いカクテルなんだけど、ビール一杯が定量のやつにとっては確かに悪魔。
テキーラにカシス、レモンとジンジャーエール。
さわやかな飲み口だけど、後からテキーラが効いてくるのだ。
いつもの席は、case caféの本棚の前にあって、
やつとやつの背にある本は見慣れた一つの景色みたいなもの。
馴染みのカフェ、吸いなれた空気、慣れ親しんだ顔。
ここでやつとご飯を食べながらお酒を呑むのは至福の時間だったりする。
もともと色白のやつの顔は今日も真っ赤になっている。
グラスを見るとまだ半分しか空いていない。
酔っ払ったやつの顔の色は、やつの斜め後ろにある本棚の本の色にそっくりだ、いつも思う。
それにしても、本棚の本は誰が読むんだろ。
表紙を見る限り、洋書みたいだけれど。
「それ、オレも呑んでみようかな。」
それ、とやつは私のグラスを見て言う。
「えぇ?やめときなよ。顔、後ろの本とおんなじなんだから。」
やつは振り返って本を見る。
「こんな赤くねぇよぉ!」
顔を更に赤くさせていうのがおかしくて思わず笑ってしまう。
ムキになって反論するところが妙に可愛い。
そんなこと言ったらきっと拗ねるんだろな、と想像してまた笑う。
幸せ。
ここでやつと過ごす、他愛のないステキな時間。
お腹が一杯になって、ちょっとアルコールも回って、目がとろん、とする。
明日も仕事頑張らなきゃね。
自分に言い聞かせるように心の中で呟き、私達は席を立った。
「明日のランチ何?」
帰り際、厨房でフライパンを振るジノ君に聞くと、
「あー、多分鶏肉あたりをどうにかします。」
と適当な答えが返ってきた。
平行にのびる二本の線は、同じ方を向いて真っ直ぐ進んでいく。
―――交わることなく、永遠に。

カランカラン
「いらっしゃ―――」
「こんにちはー!いつもので!」
ジノ君が顔を上げて「あ」と気付く。
「相変わらず元気っすねえ、楠木さん。―――で、いつものって何すかね?」
「そりゃあ楠木サンのいつものって言えばジノ君、わかんないの?ほら、アレよ、アレ。……えーっと、どっちにしよう。」
「迷ってんじゃないですか!」
私は思わずにやにや笑う。
普段「カンケーないっすね」が口癖のジノ君をいぢるのは、私のささやかな楽しみだ。
いや、別にSってわけではないんだけど。
ジノ君との会話は楽しいという話。
さて、やつを待ちますか。
腕時計を見るとまだ時間があるのでカウンターの席に座り、
「お先に」と心の中で呟いてドリンクメニューを開いてみる。
(……。とりあえず、生かな)
パタンとろくに見ていないメニューを閉じ、注文しようと顔を上げると、あらステキ。
黄金色の飲み物が隣に…って店長がグラスになみなみと注がれた生ビールを持って立っている。
「さすが!」
「いやあ、やっぱり楠木さんったらコレでしょ?。」
「ですよねー。それに比べてジノ君はー。」と私。
「ジノ君はー」と後に続く店長。
ジノ君は心外そうに「なんすか!何なんすか!そういうの流行っているの?!」と喚く。
そんなジノ君の姿をサカナに、お楽しみの生ビールをば。
「いっただっきまぁす!」
ぐびぐびーっと勢い良くグラスを空けて、「おいっしー!」と言ったら
ヒロヤがジノ君にボソリと、
「楠木さん、黙っていたら綺麗なんですけどね…」
いや、聞こえているよ、ヒロヤ。
つっこもうかと思ったけれど、駄目だ。あの子は天然だから。
心優しい私は聞こえないフリをして店長と話をする。
今日お店に来た面白おかしい人の話なんかを・・・
このペースで返答しているんだ。常連さんだというのはしっくり来る。
でも、隣の女の人は、あの本ぱっと見ても意味が分からない、
専門的な知識がないと全く面白くもなんともない本を読むだろうか。
僕の心臓はさっきからバクバクいいっぱなしだ。
そんな気持ちとはウラハラに、隣の女の人はカウンター内の店長と新作スイーツについて談笑している。
「今回の新作はね、『グリオットチョコケーキ』なの!」
とテンションの高い店長。
「グリオット?て何?」
きょとん、とした声で女の人は聞き返す。
「グリオット、とはさくらんぼのことでーす。
今回のケーキのイメージは、内に秘めた情熱!…みたいな感じ?
ずっしりとしたチョコケーキの中に、ヤツが潜んでいるのよ。」
フフフ、とたくらみ顔で店長さんが笑う。…少し、こわい。
下準備:さくらんぼをブランデーに漬ける
1. まず、チョコレートにバターを入れて電子レンジで溶かします。
2. そこに少し温めた生クリームを入れ、泡立て器でゆっくりかき混ぜます。
さらに、卵黄とココアと薄力粉を加え、混ぜ合わせます
3. その間に卵白にグラニュー糖を加えながら6分立てのメレンゲを作ります。
4. メレンゲを2に、1/3だけ加え、泡立て器でしっかり馴染ませます
5. 残りのメレンゲを2回に分けて加え、ゴムベラでボールの底からすくうように混ぜ合わせます
6. ブランデーにつけておいた(グリオット)さくらんぼを入れ、
150度のオーブンで30分、湯せんで焼いて完成
ピピピピピ
突然鳴った音に、僕はちょっとびっくりした。周りを見るとびっくりしている人なんていない。
僕は少し恥ずかしくなってうつむいた。
店長さんはオーブンからケーキを取り出し、スティック状に手際よくカットしていく。
隣の女の人は「へー」と感心しながら、その作業を見つめていた。
長い黒髪と通った鼻筋。
この人だったらいいのに・・・と思ってしまった。
彼女はカットしたてのケーキを受け取り、そのまま手づかみでパクリ。
「甘酸っぱーい!」
彼女は目を丸くしている。
「これ、中にさくらんぼあること知らなかったら驚くね。
あること知っている私でもびっくりしちゃったもん。」
店長はしたり顔でニシシ、と笑う。
「あ、1個食べます?」
突然、声をかけられて、僕は頭の中が真っ白になった。
え?
「あ、い、いいんですか?」
動揺しているのがバレバレだ。かっこわるい。
いいよいいよ、と店長と彼女が揃って言う。
勧められた新作ケーキを僕も同じくパクリと一口。
(わ!)
さくらんぼが舌に転がった途端、口の中に酸味が広がった。
甘ったるいチョコレートケーキの中に潜んだ、強いブランデーのにおいがする酸味がきいたさくらんぼ。
『内に秘めた情熱!…みたいな感じ?』
店長の言葉を不意に思い出す。
「ほんと、男には優しいねえ、楠木さん」
「そんなことないよー」
二人は談笑を続けている。
「楠木」という名前が僕の記憶メモリーに蓄積された
女の人は赤い本を本棚のいつもの場所に戻し、こっちへ向かってくる。
「お会計お願いしまーす」
「あれ、楠木さん、もう帰っちゃうの?」
店長がその女の人に声をかけた。
「時間ない?ちょっと、もうすぐ、あと10分くらいで新しいスイーツの試作品出来上がるの。良かったら味見してって」
どうやら、この女の人は常連さんらしい。
多分、来て3週間の僕より遥かにこの店に足を運んでいるような慣れた雰囲気があった。
いや、それどころじゃなくて、顔、だ。振り返った一瞬で見たが、生憎僕は視力が悪い。
もう一度みたい。ジロジロ見てやりたい。
冷静と情熱の間で僕は激しく揺れ動いた。
意気地なし。
いや、こういうのはヘタレだ。
(ヘタレ…)
自分で思ったくせに妙に凹む。
そんなこと考えつつも聞き耳だけはしっかり立てている。
そんな自分がちょっと恥ずかしいけれど、そんなこと誰にもわからないだろう。
「時間?あるある。じゃあ、遠慮なく試食…ていうか、毒見だよねえ?毒見役かって出るわ」
クスクスと女の人が笑い、僕の隣の席に座った。
途端、僕の鼓動が跳ね上がる。
(この人なのかもしれない)
2-2
「このページなら私もこれ」 「彼のシンプルさが好き」
僕は息を止めた。
返事があるとは思ってもみなかったし、
自分が丸をつけて指した建築物の設計者は、とかく奇抜さに目が行きがちなのだが、
彼の良さはシンプルな建築物の設計にあると思っていたからだ。
その思いを理解してくれる人が僕の周りにはいなかった。
急に僕はこのメッセージの主が気になりだした。
「じゃあこれも好きじゃないですか?」
その問いには、シンプルに
「YES!」
と書かれていた。
何だか嬉しくなって、思わず顔が緩む。
ふと視線を下げると、まだメッセージには続きがあった。
「5ページ先へ」
なんだろう、と僕はページをめくった。
先が全く読めなくて、わくわくしてしまう。
こういうのはどれくらいぶりだろう。
5ページ先を開く。
「こんな家に住みたい」
よく見ると、開いたページ一面に描かれた緻密な図面に更に書き足された線。
細部にわたって書かれた繊細なその線を僕は一つ一つ丁寧に見た。
クリアで迷いのない真っ直ぐな線。
けれどその線はとても細くて…そのメッセージの主の性格が出ているような気がした。
思い浮かんだメッセージの主のシルエット。
(妄想だ)
何考えているんだ、と僕は苦笑する。
ただ、その真っ直ぐなラインが描く図面は、確かに僕の好みだった。
そういう感覚が似ているのかもしれない。
僕たちは似ているのかもしれない。
…こんな思いは錯覚なんだろうか?
僕は考えあぐね、勢いに任せてこう書いてみた。
「僕が建てましょうか?」
顔も知らない、男だか女だかもわからない人に大胆なことを書いたものだ、
と家に帰ってから若干の後悔をした。
(とは言え、知らないから書けたのだろう。普段の僕ならこんなことはしない)
果たしてどんな回答が返ってくるのだろう。
気になってまたこの店に来てしまった。
それが、今。 5度目の来店なのだ。
カウンターの席で、赤い本にまつわる一連の出来事を一通り思い返した。
ただ、いつもの席には既に人が座っていて、
―――しかも、ある筈の場所にあの本がない。

僕とその人のラインはこのカフェで交わっているように見えた
ほら、確かにそう見えるだろう?
2-1
カウンターの席に座るのははじめてだ。
いつもの二階の席ではないから、ちょっと落ち着かない。
店内は混雑していた。久しぶりに天気が良いからだろうか。
この店―――「case」に来るのも5度目になる。
3週間という短い間で5回というのは多いのだろうか。
今日はついに店長らしき人に「いらっしゃいませ」
ではなく
「こんにちは」と言われてしまった。
これじゃ常連さんじゃないか。
そもそも、こんな風にこのカフェに足を運ぶようになったのは、あの本のせいかもしれない。
あの、赤い本。
今月のはじめ、何気なく手に取った赤い表紙の洋書をパラパラとめくってながめていると、あるページに走り書きがあった。
「私はこれが好きあなたは?」
サラッと流れるように書いた、まさに走り書きなのだろう。
けれど、その文字の女性特有のやわらかい形に好感をもった。
素敵な字だ。
自分とは比べられないな、なんて思う。
その字が綺麗だったから、多分そんな単純な理由で僕はペンをとった。
「僕はこれかな」
それから約1週間後、待ち合わせが土壇場で1時間遅らされ、突然の暇を持て余してこのカフェに訪れた。
また、同じ席に座り、ふと視界に赤い本が入ってあのメッセージにリアクションしたことを思い出した。
まさかな、と小さな期待混じりで僕は本を手に取り、ページをめくった。
「同じ本、だよねえ?」
「ですよねえ。」
英語のタイトルも同じ、だ。
ヒロヤは何を思ったのか、3冊、カウンターに並べてみた。
「何の意味が」
「いや、特には。」
なぜ照れる、ヒロヤ。
「なんか、色ちょっと違いません?」とジノ君。
「そう?光の加減じゃない?」
「そういえば、ちょっと違うかも…。日に焼けたとか。」とヒロヤ。
私も目を凝らすと、確かにちょっとずつどれも色が違う気がした。
3つの赤。
(あ。)
春の新作スイーツ、思いついてしまった。
私はいそいそとカウンターの中に入って早速思いつきスイーツを作ってみることにした。
1.イチゴは洗ってヘタを取り、クランベリーとラズベリーを適当な大きさに切ります。
「店長、何か手伝いますか?」
でた、ジノ君のやる気はないけどとりあえず言っておくトーク。
この世渡り上手めっ。
「だいじょーぶでーす」
2.鍋にイチゴを入れ、イチゴの5パーセントの重さのグラニュー糖をイチゴの上に入れて20分間そのままにします。
大好きなルクルーゼの鍋にイチゴを投入!
「ん?イチゴの5パーセントの重さ…?」
「イチゴは何グラムなんですか?」とココロ優しいヒロヤ君。
「300グラム」
「15グラムっすね」横からぼそりとジノ君。
「…」
なぜだろう。答えを教えてくれたジノ君よりヒロヤがかわいく見えるのは。
―――10分経過。
「ぼーっ」
「店長、声に出して言わなくても」
「だって、他にすることないんだもの」
「いや、そもそも別に見ていなくても」
「いーの、見ていたいのっ」
ふと脇を見ると、遠い目で微笑んでいるヒロヤがいた。
あああ、絶対子どもだと思われている!
私が一番年上なのに!
3.グラニュー糖が少し溶けたら中火にかけ、沸騰させます。アクが出てきたらこまめにすくいましょう。火は中火から弱火くらいで煮詰め、ジャム状になったところで火をとめて冷まします。
ふむ、我ながら手際がいい。アク取もぬかりなく。
鮮やかな赤いイチゴジャムもどき。てかてかに光って、チープなおもちゃのルビーに似ている。
4.その間に、卵黄をボールに入れて溶きます。一回り大きなボールに氷水を張り、その上に卵黄が入ったボールを置いて、生クリームと牛乳を入れて冷やしながらかき混ぜましょう。
残念だけれどうちにジェラートマシンなんて高等なものはないので、氷水をボールに張って気長に混ぜ続ける。
「ジノ君、うで疲れた」
「がんばってくださーい」
…ジノ君の声援は、聞くからにやる気がない。というか、そもそも応援する気がないんだろう。
「手伝いましょうか?」
と横からヒロヤ。
「いいの、いいの。もう少しだから。ありがとう。」
ヒロヤの笑顔に励まされつつ、かき混ぜ作業続行。
5.かき混ぜること30分。後は冷凍庫に入れて、食べ頃のかたさになるまで待って完成。
ほどよいかたさになったソレをペロリとなめて冷蔵庫前ににんまりしていると、
「お、出来たんですか?」 と ヒロヤ。
「うむ。できたよ~」
何なに?とジノ君も身を乗り出す。
私は手早く皿に3種類のジェラートを盛り合わせてしたり顔。
「真っ赤なベリーのジェラート盛り合わせ、出来上がり♪」
うん、これも春のスイーツ候補だね。
「ん~おいしい♪」
カランカラン
「ほれ、お客さん!」
「いらっしゃいませー」
チャプター2へ続く
まあともかく、である。
春の陽気は人の気持ちをうららかにしてくれるものである。
青い空の下、鼻歌なんぞをふんふんと歌いながら店の近くまで来ると、見たことのある背中が見えた。
(あ、あの赤いマフラーは!)
勢いよく手を上げて声をかけようと思ったのに、目の前を勢いよくタクシーが走っていって豪快に水しぶきを上げた。
あぶない。
全くもって危ない。
思いっきり雪解けの泥水をかぶるところだった。
もう!と思ってふと辺りを見回すと、赤マフラーの君の姿はなかった。ああ、残念。
―――ま、いっか。
曲がり角を左に曲がって、少し歩くと「café case」に到着。
足どり軽くお店のドアを開けると、ジノ君が「遅いっすよ!」と言いたげな顔でこっちを見た。
「おっはよー!」
元気な挨拶は、多少の遅刻もうやむやにしてくれる素敵な慣習である。
私はいそいそと靴を履き替え、エプロンをした。
「いやいや、実は本屋で今度の新作スイーツ何にしようかとレシピを物色していたんだけど、」
そこまで遅刻のいいわけをして、レシピより買った本のことを思い出した。
というか、赤い本のことをすっかり忘れてた。
「あ、そうそう。さっき言っていた本買ってきちゃったー。
ちょうど本屋でセールやっていて1000YENだったんだよねー…ん?」
話している間にジノ君とヒロヤの視線がレジに集中する。
・・・・何かと思って見ると、
「えええー!同じ本!?」
「いやあ、すごいタイミングっすね。さっき楠木さんが
『良かったらまたあの場所に戻しておいてください。』って。
無くなっていたの気付いて持ってきてくれたみたいです。」
僕たちも気付かなかったのに、よく気付きましたよねーとジノ君。
私はポカンと口を開け、オトコの店員二人は不思議、不思議、と神妙にうなずきながら2冊の同じ赤い本を見ている。
そんな時、カランカランと店のドアの鐘が鳴った。来客だ。
「いらっしゃいませー」
そのお客さまの顔を見たことがあった。
最近ちょくちょく店に来てくれていたメガネの男の子だ。
でもうつむいていて、何だか様子がおかしい。
「あの・・・・・ごめんなさい・・・・。」
これ、とその男の子は持っていた紙袋を私に押し付け、逃げるように店を去っていった。
およ?
「なんだろう?」
「なんでしょうね?」
皆あっけにとられてしまう。
紙袋を開けると、出てきたのは
―――赤い本。
「「「………」」」
3人とも、黙ってしまった。
一応これでも店長である。
店の中のことは大抵把握している。すぐには思い出せなくても、ちょっと考えれば…
…
…
(ん~どうだっけ?)
にへり、と誰にごまかさなきゃいけないわけでもないのに、何となく笑ってしまった。
これはアレだ。現代の最先端をゆくアレを使ってだね、
―――プルルルプルルル、プッ
※ アレ:携帯電話
「ジノ君、おはよー!赤い本ってまだある?」
『え?赤い本って…あ、おはようござーいやっす。あ、あれですか?2階にあるよくわからない感じの。』
さすが我が片腕。ツーと言えばカーなのを心得ている。私の短い言葉で把握してしまったらしい。…ここまで分かられると何だか小憎たらしい気もする。
「そうそう」とうなずくと、
『2階にあるんじゃないですかね~、多分。…いや?ないかもしれない?』
ちょっと見てきますわー、とジノ君は私の為にマッハの速さ(気持ち)で確認しに行ってしまった。
『すんません。ありません。全然ありませんでした。…いつからないんでしょう?』
ぜーはーと息が上がっているジノ君。君、まだ若かったよね?
3日前にはありましたよーとジノ君の後ろから声がする。ヒロヤだ。
『え、なんでわかるの』とジノ君。
『3日前、本の整理したんですよ』とヒロヤ。
コラコラ君ら、そっちで話しない。
「まあ、ともかく、ないんだねー。」
じゃお店でー、と私は電話を切った。
赤い本には値段のシールが3枚くらい重ねて貼られていて、
「お買い得品 1000円」
と印字されていた