





女の人は赤い本を本棚のいつもの場所に戻し、こっちへ向かってくる。
「お会計お願いしまーす」
「あれ、楠木さん、もう帰っちゃうの?」
店長がその女の人に声をかけた。
「時間ない?ちょっと、もうすぐ、あと10分くらいで新しいスイーツの試作品出来上がるの。良かったら味見してって」
どうやら、この女の人は常連さんらしい。
多分、来て3週間の僕より遥かにこの店に足を運んでいるような慣れた雰囲気があった。
いや、それどころじゃなくて、顔、だ。振り返った一瞬で見たが、生憎僕は視力が悪い。
もう一度みたい。ジロジロ見てやりたい。
冷静と情熱の間で僕は激しく揺れ動いた。
意気地なし。
いや、こういうのはヘタレだ。
(ヘタレ…)
自分で思ったくせに妙に凹む。
そんなこと考えつつも聞き耳だけはしっかり立てている。
そんな自分がちょっと恥ずかしいけれど、そんなこと誰にもわからないだろう。
「時間?あるある。じゃあ、遠慮なく試食…ていうか、毒見だよねえ?毒見役かって出るわ」
クスクスと女の人が笑い、僕の隣の席に座った。
途端、僕の鼓動が跳ね上がる。
(この人なのかもしれない)